JULLY and JULIE

1977年(昭和52年)「勝手にしやがれ」を歌う姿に心奪われた小学四年生の野生児・・・黒電話、テレビは一家に一台、お小遣いはゼロだった昭和の庶民家庭・・・時代時代の思い出話を散りばめながら・・・沢田研二さんのお話をして行きたいと思います。

1977年(昭和52年)当時、小学四年生のボクらは大熱狂の渦の中にいたように思えます。スーパーカーブームに始まり、スポーツ界ではベイブルースのホームラン記録を抜くかと騒がれる「ワンちゃん」こと『王貞治さん』、ボクシング界では連勝を続ける「カンムリワシ」こと『具志堅用高さん』、プロレス界では「ジャイアント馬場さん」、「アントニオ猪木さん」。歌謡界では「ミーちゃん」、「ケイちゃん」の『ピンクレディー』がとんでもないブームを巻き起こしていました。日本国はヒーローが満ち溢れていた時代・・・。そしてその熱狂の渦の中、ブラウン管の歌謡界にひときわ輝くヒーローが存在しました。それは、ジュリーこと沢田研二さんでした。
あれから四十年以上の月日が流れ、今なお現役で活躍し続けるみなさん。その中で沢田研二さんの思い出や今を、自分自身の記憶を手繰り寄せながら綴って行きたいと思います。

2018年11月7日(水)by ダイビングショップ【セブン】代表 鈴木孝壽


沢田研二 70YEARLIVE『OLD GUYS ROCK』2018年10月6日 横浜アリーナblog
http://blog.livedoor.jp/divers_seven7/archives/54257539.html

1984年(昭和59年)3月3日は土曜日だったと思います。私は高校一年生がそろそろ終わる時期でした。この年の一月に二年生へ進級出来ることは確定していたので安心していたと思います。 お正月のお年玉貯金から捻出してファンクラブに入会。チケットも「渡辺プロ友の会」で購入しました。神奈川県民ホールへ行くのは二回目でした(1982年の夏に招待券が当たり田原俊彦さんのコンサートを観に行った事があります)。この日は学校帰りに日吉の祖母の家に寄ってお昼ご飯を食べました(裏の中華料理屋さんの出前でラーメン、餃子、チャーハン)。から県民ホールへ。東急東横線の終点駅「桜木町」からテクテク歩いて行きました。今の桜木町とは全く違う雰囲気、何となく薄暗くて潮臭い人影まばらな道を歩いたものです。 ...

中学校教師が原子爆弾を作って日本国を相手に「プロ野球を最後まで中継しろ」「ローリング・ストーンズ日本公演を実現させろ」と脅迫。原爆づくりの借金を返すために「金を要求」。警察とのデッドヒートを繰り広げ・・・。カルト映画の傑作として今なお根強い人気を誇る作品。観てない人は是非。 ...

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